sunawachi.com「レザー・コラム」

レザーにまつわるあれこれを不定期で書く、sunawachi.comのコラム

「不屈のヒロキくんの話」

このレザーコラムは、いわば商売のために書いています。
スナワチの社長である前田将多が、スナワチのために書いているのですから、おのずとそういうことになります。
人の死を商売に利用するのは不本意なので、しばらく黙考したのですが、やはりこういう若者がいたことを書き残しておきたいと考え、ヒロキという青年について書きます。

 ヒロキは、私の東京の実家の隣家にいた青年です。私は男ばかり三人兄弟で、隣家にはうちの末弟より2つ下の女の子がいて、私たちと合わせて四人兄妹のように育ちました。
彼女は自分だけ女で、きっと「おちんちんというのは、あとから生えてくるもの」だと考えていたかと思います。母親同士が親友になり、我々はそれくらい近い関係にありました。

隣家では子供をもう一人ほしいと考えていたようですが、一度流産を経験されています。当時まだ中学生で、流産というものがなんのことかよくわからなかった私は、私の母が電話でその報を受けて大泣きする姿を見て、それが女性にとってどれくらい悲しいことなのか、多少のショックをもって知りました。

それから何年かたち、やがてお姉さんとは11才年の離れた待望の弟が産まれます。それがヒロキです。

 私とは15才くらい年がちがう上、彼が少年になる頃には私はアメリカの大学に行っていて不在でしたし、就職して関西に移ってしまいましたから、さほど親密な付き合いはありませんでした。
ヒロキからしたら、物心ついた時から私は大人で、「隣の家にいっぱいいる怖そうなおにいさんの一人」だったかもしれません。

 ある日、「ヒロキが倒れた」という連絡があり、検査の結果胃ガンが発見されたと知らされました。
ヒロキは専門学校を出て、憧れていたゲーム会社でCGアーティストとして、働いているときでした。
当時、電通関西支社に勤めていた私は、ミナミのレザー屋でよい革財布を買って、ヒロキに贈りました。
「このレザーは使ううちに色が変わって、手に馴染んで、カッコよく変化します。だから、君は元気になってこれを5年、10年と使って、ボロボロになったときに『ああ、俺は同じだけ生きたな』と思えるようになってください」とメッセージを添えました。

 

彼は手術をして、抗ガン治療に耐え、言われた通りに、財布をよく使ってくれました。
「いや、そうは言ったけど、ボロボロすぎねえか?」と思えるほど、使い込んでくれました。

ガンは、一度はなりを潜めたかに見えましたが、数年後に再発しました。
私は会社を辞めて、私自身がレザー屋になっていました。

 東京に行く折には隣家に声をかけ、ヒロキの顔を見ましたが、抗ガン剤治療というのはサイクルがあり、私が会うときはいつも普通にひょこひょこと歩いて元気な姿を見せてくれました。
彼曰く、投薬の翌日まではほぼ通常通りに生活できるのですが、その翌日がつらく、「廃人みたいになります。ただ寝てるだけで、話しかけられても返事すらできません」ということでした。
それがいかにつらいことなのかは、なった本人にしかわからないことだと思います。私には想像もできません。

ヒロキは好きなことを突き詰めたり、細部にまで神経を使ってなにかをつくったりするのが性分みたいで、コンピューターグラフィックスに携われない鬱憤をレザーにぶつけるかのように、レザークラフトに打ち込みはじめました。
スナワチにいるプロの後藤さんに心酔しているようで、会えば次々と質問をしていました。

 遠くない死期を覚悟しながら、あれほどレザークラフトにのめり込んで、友人たちのために名刺入れやコインケースをつくっていたのは、やはりなにか、残るモノを手渡したかったのではないだろうか、と私は想像します。
ヒロキの集中力は、私の目からも異常なものがあり、上達のスピードは偽りなく驚愕でした。ちょっとキモいくらいでした。

後藤さんは、ヒロキと直接メッセージを送り合い、助言を与えていたみたいですし、言葉で伝えられない部分は映像を撮って送っていました。
クリスマスには、スナワチからヒロキがずっとほしがっていた後藤さん製のカバンをプレゼントしました。彼は感激のあまりアワアワしながら、電話をかけてきてくれました。

 ガンは容赦なく進行します。骨にも転移して、彼は友人と電車に乗りながら、右手で吊り革につかまっていましたが、車両が揺れた瞬間に、腕の骨が折れてしまいました。それはのたうち回るほどの痛みだったそうで、駅から救急車で搬送されました。

それでもヒロキは、「左腕と口かある」と言って、レザークラフトをつづけました。

 その頃にはあらゆる抗ガン剤に効き目があらわれないことがわかり、医者はホスピスでの緩和ケアを勧めたそうです。しかし、ヒロキは諦めずに、抗ガン剤治療の道を選びました。

 体調の比較的よいときに、お姉さんに連れてきてもらい、大阪のスナワチも訪ねてきてくれました。ここでも後藤さんとなにやら話し込んでいましたので、そういう際は、私はふたりをそっとしておいて、心ゆくまでレザー談義してもらいました。

 ヒロキと最後に会ったのは、6月の後藤優太オーダー相談会のため、原宿に行ったときです。だいぶやせて顔色も悪かったように記憶しますが、会場まで姉の運転で来てくれたのです。

 ボロボロのスニーカーを履いていたので、一緒に買いに行きました。

そして、夜はまた後藤さんとレザークラフトの話をしていました。いつ終わるねん、というくらいしていました。

ヒロキが帰ったあと、後藤さんと二人で、夜空を見上げながらタバコを吸ってこんな話をしました。

「新しいスニーカーもさ、いつまで履けるかわからないけど、履いたらええやんな」

「はい、僕もレザーについて教えていますけど、ずっとこれからもうまくなればいいな、と思って教えていますよ」

 

ヒロキ本人を含めご家族は、前年の夏に「余命はあと1年くらいではないか」と医者から言われていたそうですが、次の夏がやって来ようとしていました。
私は「ヒロキが死んでから会いに行っても仕方ない。生きているうちに見舞いに行こうか」と思って、私の母親に相談したところ、「もう会いに来ても、話せる状態ではないから」と止められました。

先週、母から「ヒロキは意識もほとんどなく、体重も45キロを割っているくらい(ヒロキは身長180cm)にやせ細っています。入院や治療はせず、自宅で見送るつもりだそうです」と連絡があり、私は返す言葉も見当たらず「わかりました。ありがとう」とだけ返信しました。

その翌朝に、ヒロキはガンとの長いたたかいを終え、永眠しました。享年28。

私はヒロキが闘病中とはいえ、飄々としていた姿しか知りませんので、葬儀に参列する前の現時点では、まだ実感が湧かない状態です。
ただ、こういう、生きる意欲も、能力も才能もある若者が、苦しみながら命を一枚一枚剥がされるように手放さざるをえない、運命の不条理に打ちひしがれる思いです。

「隣の家の怖そうなおにいさん」であった私が、レザーを通じて、少しの間でも彼のような不屈の魂を持つ若者と交流ができて、ひたむきに生きようとする人間の崇高さに触れることができて、感謝とともに見送りたいと思います。

私たちの製品を大切に使ってくれてありがとう。
Rest in peace.

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中央がヒロキくん

 

「愛せるモノを、持たないか?」

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